2009年07月13日
論文メモ「「加重傾向」 宗教的儀礼がないからKYが流行る」
真鍋昌平著『闇金ウシジマくん』を漫画喫茶で一気に10巻まで読む。
ヒリヒリとした恐怖感
これが思想の原点になると感じた。帰りの自転車の上で、奥さんが薬剤会社に勤める旦那を尊敬しない、というのを見た。これは宗教的儀礼がないからだ、と思った。私が彼の立場なら、どうしただろう、という感覚を持ったからだ。借金漬けになったのなら、どうしたらどう。警察や弁護士に直ぐ相談するだろう。していくだろう。
宗教的儀礼。信仰心がなくてもいい。それでもこの世界から離れた支店が必要だと私はまた実感した。
それは、真鍋氏が書く闇がこの世界で見れなくなった。借金漬けになる1つの大きなパターンは見栄だ。その見栄は、死や老化やルンペンを見なくなかったからだろう。
そしてそういう傾向が強まると、一気にそこに傾いていく。
「加重偏向」とでも言うべき「死、老化、ルンペン」を否定する心理的作用だ。社会性が強い人はこれに侵食されるのだろう。消費経済が浸透するのも社会性が強いからだろう。
死や老いやルンペンが見えなくなると一気に加速して否定するようになる。社会から抹殺するようになる。そうした傾向。それはまさにKYに通じる傾向なのだろう。
私は真理に生きている。
なんと有り難いことか。なんと有り難いことか。
私は目標がある。到底届きそうにもないけれど、けれどなんと有り難いことか。有り難いことか。
ギリシャ悲劇のような真島氏の『闇金ウシジマくん』であった。
一気に10巻まで読める時間と金と頭の余裕があった。有り難い。
2009年07月08日
論文メモ「食料も換えられてしまった」
現代日本人にとっての食料は、生存を賭けた存在者ではなく、金銭の多寡によって量られる代替物でしかなくなったのである。
消費期限を過ぎた食料品は、「また、買えばいいや。200円だし」ということである。
200円、という金銭の多寡によって量られる代替物
「食べなければ半日腹がすいてしかたがない」という生存を賭けた存在者ではなくなったのである。
つまり、食料でさえも、製造物の発達によってわれわれにとっての存在意義を転換されたのである。
生存を賭けた、というものが、生存を脅かす死や他者が私たちの世界から消失したのは、まさに製造物の瀰漫によってである。
2009年06月05日
「 しっかりと仕事をする理由 」
大きな不条理を感じて大丈夫なのか、と聞かれた。
愚痴らないし、自分を恥ずかしいので隠すし、一生懸命プロの仕事をするし、どうやって私は大きな不条理を消化してきたのだろう、と聞かれた。
どうやって私が昇華してきたかを最近はなすようになってきた。30を超えてからやっと。これまでは恥ずかしくて話もしなかった。これも老いが原因なのだろう。自分が弱いこと弱くなったことを受け入れられ、折り合いをつけられるようになったからだろう。前は人に一切話もしなかったし、ブログにも書かなかった。MIXIには今でも書けない。
今は分かる人には聞いてもらえるようになったし、抱えてきた不条理も分かってきた。20歳の頃は眉間にしわが寄っていた。それはこの不条理が原因だっただろうか。
でも、分かってくるともてない(笑
クラスの人の名前を覚え人格まで察するようになったのは死の話をするから。1人1人違うし彼らの思いを大切にしなければ、というのに先生が1人1人の名前を覚えず人格まで察しなければ、ひびかない、残らない、と思ったからだ。私は私自身の性格はバラバラだったし、不条理に押し流されていてボロボロだ。けれども仕事くらいはしっかりしたいと思っている。今でも思っている。
「 禅からも逃げようとする私 」 私小説メモ
私は、己を他人から隠すことで成長してきたのかもしれぬ。
いいや、隠して隠して隠し通そうと生きてきたのだ。
親や友人にすべてを見てほしい。恋人には伴侶には自分のことを理解してほしい、気持も判断も価値観も理解してほしい、という人々がいるが私にとっては理解しがたい。
私は、親にも友人にも恋人にも理解されそうになると、さらに自分を深くして、穴を掘って、隠そうとして新しい自分を作るのであった。
それはまさに場当たり的な行動で、逃げ穴を作ろうとするのであった。穴の入口に敵や何者かの跡があるとすぐに別の穴を作って、そうやって安心してきたのだった。その穴を無理やり作るように別の自分、新しい自分、誰も知らない自分を作ってきたのであった。
だから、今でも私の中の私のすべてを知っている人はいない。
いくつもある私の、普通の人は1つしか知らない。だからビジネスの時はビジネスの顔だけなのである。奔放に仕事をする人をうやらましいとは思わない。危険だ、と思うだけである。裏切られた時、仕事が首になった時、その人のすべての自我が崩壊するのかもしれない、と思うからである。
これと同じように私は、私の2つ以上の顔を知っている人を警戒するようになる。3つ以上ならもう、交流したくない気持ちが出て来てしまう。もうそれは止めようがない。
そうやって最後に掘った穴は、禅の真人の穴であった。すべての穴に通じ、さらにそれをすべて壊す穴であった。けれども私はさらに下の穴を作りたい、そういう気持ちが出てきてしまった。禅を理解して1年が過ぎていないのに。
いいや、隠して隠して隠し通そうと生きてきたのだ。
親や友人にすべてを見てほしい。恋人には伴侶には自分のことを理解してほしい、気持も判断も価値観も理解してほしい、という人々がいるが私にとっては理解しがたい。
私は、親にも友人にも恋人にも理解されそうになると、さらに自分を深くして、穴を掘って、隠そうとして新しい自分を作るのであった。
それはまさに場当たり的な行動で、逃げ穴を作ろうとするのであった。穴の入口に敵や何者かの跡があるとすぐに別の穴を作って、そうやって安心してきたのだった。その穴を無理やり作るように別の自分、新しい自分、誰も知らない自分を作ってきたのであった。
だから、今でも私の中の私のすべてを知っている人はいない。
いくつもある私の、普通の人は1つしか知らない。だからビジネスの時はビジネスの顔だけなのである。奔放に仕事をする人をうやらましいとは思わない。危険だ、と思うだけである。裏切られた時、仕事が首になった時、その人のすべての自我が崩壊するのかもしれない、と思うからである。
これと同じように私は、私の2つ以上の顔を知っている人を警戒するようになる。3つ以上ならもう、交流したくない気持ちが出て来てしまう。もうそれは止めようがない。
そうやって最後に掘った穴は、禅の真人の穴であった。すべての穴に通じ、さらにそれをすべて壊す穴であった。けれども私はさらに下の穴を作りたい、そういう気持ちが出てきてしまった。禅を理解して1年が過ぎていないのに。
2009年05月31日
私は自分の才能を殺したりはしない
私は自分の才能を殺したりはしない
公務員になりたい、それが将来の夢、現実に近づいて来ても一生涯の望み、なんて言いわしない。
なぜなら私は5歳の時に全ての人間に絶望したから。人間の総体に絶望したから。
そして強く惹きつけられたから。
そんな私に土台自分の才能を殺すのは無理だった。
今は才能を殺した生き方をしている人をみても、触れても怒りもさげすみも否定もなくなった。ただ私と違うだけ、というだけ。
私はこの生き方しか出来なかった。
だから私は、生まれ変わったら音楽や芸術を追及する生き方をしてみたいと思う。
今の私に十分満足しているから他の生き方に目が行く。今の自分を肯定しなくてもいい。否定もしなくてもいい。ただはなれているだけ。kの肉団子からはなれているだけなのだ。
それがもう解ってしまって、禅も解ってきて、後は龍樹くらいだろうか残っているのは。
2009年03月18日
論文メモ 「工作物的心理と依存的心理」
食べ物が栄養摂取のためだけの存在になってしまった。
そうすると如何に効率よく栄養を摂取できるか、という視点でしか食べ物を測れないことになる。けれども、この先には心特有の問題がかくされている。「では、栄養満点になって何をしたいのか」、「では、栄養満点になった私はどうなればいいのか」という問題である。
この問題に飛び出す時、効率でしか観ていない工作物の視点は崩壊する。それが根源的不安となる。
「この食べ物を食べる、つまり、あなたの命を頂く」という命と命の精神的な価値を食べるという行為に見出す時、人は依存をしていることを理解する。この依存が、河合隼雄氏が「自立は依存によって成り立つ」という依存になる。
「私は毎日、多くの命に依存している」と自覚した時、「では、栄養満点になって何をしたいのか」、「では栄養満点になった私はどうすればいいのか」という問題に取り組めるようになる。
心の正常と異常というのは社会的行動によってしか決定し得ない、という考え方があるが、このように工作物的視点しかない状態と依存を日々の生活の中で自覚している状態とで区別してみてはどうだろうか。
2009年03月07日
研究のテンションを下げるかどうか
事務局長でかなり疲れている。
体、というよりも心の問題だ。
その問題は、事務所ではパーフェクトにビチッと! 100%!という心構えだからだ。
このテンションを下げていけばもっと楽になるかもしれない。
これは研究でも同じ。
テンションを下げればもっと多く出来るし、結果的に全体量が増えるだろう。
それに大体質はもう確保している。
これを下げられるか、下げるべきか、下げるにはどうしたらいいか、悩んでいるところだ。
独善的、独我的であったのが、事務局長になってよく判った。
体、というよりも心の問題だ。
その問題は、事務所ではパーフェクトにビチッと! 100%!という心構えだからだ。
このテンションを下げていけばもっと楽になるかもしれない。
これは研究でも同じ。
テンションを下げればもっと多く出来るし、結果的に全体量が増えるだろう。
それに大体質はもう確保している。
これを下げられるか、下げるべきか、下げるにはどうしたらいいか、悩んでいるところだ。
独善的、独我的であったのが、事務局長になってよく判った。
2009年02月23日
論文メモ「道具は世界の存在者と生命者との中間者」
恒常性によって結びついてる人間、結びつきが修正されない世界の殆どの存在者、石、風、雲、シャワーのじゃぐち。
修正がどうして行われるのか、その不思議。
その不思議に気がつかないとエゴイズムが出てくる。
道具もこのエゴイズムによって発展してきた。
世界の存在者を擬人化する方向なのだ。世界のどの地域にも神話があり物語があるのは、あるいは、現在でも宗教=おおもとの考えがなくならないのは、日本にも正月やお盆がある。それは世界の存在者を工場h性へと、生命へと消化させたい、という欲求なのである。子どもがお人形に生命を見るように、そうした行為は人間の持っている根源的な衝動のなのだ。その根源的な衝動によって生じてきた道具は、生命にとって役に立つように設計される。あるいは、アニミズムが残っている日本では擬人化される。
この意味において、道具は世界の存在者と生命者(人間)との接点に立つ仲介者であり、貴重な事物なのである。
生命の再生産、という化学的反応。この反応を心理的に世界に転換したことによって生まれる、神話、道具。根源は1つ。
その道具が私たちの周りに広まることによって、私たちは、生命にとって都合のいい世界だけになってきたのである。根源的な対蹠として肉体的な死は、病院という非日常に隠されてしまい、私たちは益々生命の溢れる、この狭い世界に閉じ込められてしまったのだ。その極限が二進法によって構築されるインターネット、PCの世界である。全ての情報がコピー、変換、交換が可能な世界。道具の1つの極に立つ1つの世界。
修正がどうして行われるのか、その不思議。
その不思議に気がつかないとエゴイズムが出てくる。
道具もこのエゴイズムによって発展してきた。
世界の存在者を擬人化する方向なのだ。世界のどの地域にも神話があり物語があるのは、あるいは、現在でも宗教=おおもとの考えがなくならないのは、日本にも正月やお盆がある。それは世界の存在者を工場h性へと、生命へと消化させたい、という欲求なのである。子どもがお人形に生命を見るように、そうした行為は人間の持っている根源的な衝動のなのだ。その根源的な衝動によって生じてきた道具は、生命にとって役に立つように設計される。あるいは、アニミズムが残っている日本では擬人化される。
この意味において、道具は世界の存在者と生命者(人間)との接点に立つ仲介者であり、貴重な事物なのである。
生命の再生産、という化学的反応。この反応を心理的に世界に転換したことによって生まれる、神話、道具。根源は1つ。
その道具が私たちの周りに広まることによって、私たちは、生命にとって都合のいい世界だけになってきたのである。根源的な対蹠として肉体的な死は、病院という非日常に隠されてしまい、私たちは益々生命の溢れる、この狭い世界に閉じ込められてしまったのだ。その極限が二進法によって構築されるインターネット、PCの世界である。全ての情報がコピー、変換、交換が可能な世界。道具の1つの極に立つ1つの世界。
2009年02月17日
「交換可能な事実」と「交換不可能な事実」
急に冬が戻った朝、自転車で北街道を走っていて思ったこと
技術の本質は、本来全て等しくない「交換不可能な事実」を誰にでも利用できる「交換可能な事実」に置き換えることである。
置き換え方として、代理機能や縮小化などがある。
「交換可能な事実」となっても、反証可能性は失われない。
自然科学的な事実は、理論的事実であるがゆえに事実そのもののもっている非言語的な側面での反証可能性はない、が、技術的事実は非言語的な側面での反証可能性を持つ。
「死」は「交換不可能な事実」である。
けれども、それが隠されて「交換可能な事実」が身の回りの日常生活に増えている。


